大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 昭和49年(あ)321号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人中本照規、同田宮敏元、同辺見陽一連名の上告趣意第一点は、憲法三八条三項違反をいうが、共犯者の供述を、右憲法の規定にいう「本人の自白」と同一視し、又はこれに準ずるものとすべきでないことは、当裁判所の判例(昭和二九年(あ)第一〇五六号同三三年五月二八日大法廷判決・刑集一二巻八号一七一八頁)とするところであるばかりでなく、本件については、原判決が共犯者の供述のみによつて被告人の本件犯罪事実を認定したものでないことは、原判決が掲記する証拠の標目自体によつても明らかであるから、所論は採用することができない。

同第二点は、憲法一四条違反をいうが、その実質は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

同第三点は、判例違反をいうが、原判断は所論引用の各判例となんら相反するものではないから、論旨は理由がない。

同第四点は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

同第五点は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

なお、所論にかんがみ、記録を調査したが、原判決の掲記する各証拠を総合すれば、被告人の本件犯罪事実を認定するに十分である。

よつて、刑訴法四〇八条により、主文のとおり判決する。

この裁判は、裁判官下田武三の意見及び裁判官団藤重光の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官下田武三の意見は、次のとおりである。

わたくしは、自白の証明力を制限し、被告人に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪としないものと定めた憲法三八条三項の根本趣旨に徴すれば、同条にいう「本人の自白」には、共犯者の自白も含まれると解するを相当とするものと考える。けだし、当局者による自白強要の対象となり、又は、当局者に対し迎合自白をするおそれは、共犯者の場合と被告人本人の場合とで、なんら差異がないのみか、時として、却つて共犯者について、そのおそれが一層強い場合すらありうると考えられるからである。わたくしは、この点に関する一般論としては、団藤裁判官の反対意見に同調するものであり、その理由の詳細については、同裁判官の意見を援用する。ただ、わたくしは、本件の場合については、原判決挙示の物的証拠と証人の証言は、共犯者Aの自白を補強するに十分なものがあると認めて差支えないと考えるので、結論としては、本件上告を棄却すべしとする多数意見に賛成するものである。

裁判官団藤重光の反対意見は、次のとおりである。

憲法三八条三項は「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と規定しているが、ここにいう「本人の自白」の中に共犯者の自白が含まれるかどうかについては、はげしい論争のあるところである。私見によれば、この規定が、自白の偏重を避けて誤判を防止する趣旨である以上、本人の自白と共犯者(必要的共犯者を含む。以下、同じ。)の自白とのあいだに区別はないはずである。自白強要のおそれという見地からみて共犯者の全員について差異がないばかりでなく、誤判の危険という観点からすれば、共犯者甲の自白を唯一の証拠として共犯者乙を処罰することは、本人の自白を唯一の証拠としてこれを処罰することと比較して、むしろ、その危険はまさるともおとらない。共犯者は、動機はともあれ、ややもすれば当局者の意をむかえるために、自分の相棒に不利な事実を誇張し有利な事実を隠蔽しようとする積極的意図のみとめられる場合がかならずしも稀ではないといわれる。共犯者の自白を唯一の証拠として処罰することを許すのは、憲法三八条三項の趣旨を没却するものといわなければならない。

そればかりではない。共犯者中の一人が自白をし他の一人が否認をしていて、しかも、他に補強証拠がないという事案を想定するときは、反対説においては、自白をした者は自分の自白しかないから無罪となり、否認をした者は共犯者の自白があるから有罪となるという結果になる。自白をしたものが有罪、否認をしたものが無罪というのならまだしも、自白をした者が無罪、否認をした者が有罪というのは、はなはだしく非常識な結論である。しかも、共犯者は、もともと、なるべく合一的に法律関係が確定されるべき性質のものである。たとえば告訴不可分(刑訴法二三八条)や公訴時効の停止(同法二五四条二項)に関する規定はこれを端的に示すものであるが、関連事件の管轄(同法九条一項二号)、訴訟費用の連帯負担(同法一八二条)などに関する規定にも、その趣旨がうかがわれる。なお、共同被告人に関する種々の規定――上告審における判決の破棄(同法四〇一条、四一四条)、死刑執行期間(同法四七五条二項但書)など――も、間接には同様の趣旨によるものと考えてよい。かように、法がなるべく法律関係の合一的確定をはかつているところの共犯について、ちぐはぐな解決、しかも非常識ともいえるような形での解決をみちびくような解釈をとることは、とうてい正当とはおもわれない。かようにして、わたくしは、憲法三八条三項の「本人の自白」の中には、当然に共犯者の自白をも含むものと解するのである。「本人の」という字句に拘泥する形式的な文理解釈論は、この際、論外といわなければならない。

多数意見のいうとおり、当裁判所の昭和三三年五月二八日大法廷判決・刑集一二巻八号一七一八頁の多数意見は、右のような私見とは反対の結論を採用している。その判示するところによれば、「憲法三八条三項の規定は(中略)自由心証主義に対する例外規定としてこれを厳格に解釈すべきであつて、共犯者の自白をいわゆる『本人の自白』と同一視し又はこれに準ずるものとすることはできない」とされているが、基本的人権に関する憲法の規定が刑事訴訟法上の原則である自由心証主義の「例外規定」だからという理由で厳格に解釈されなければならないというのは、事柄の軽重をあやまるものというべきではあるまいか。のみならず、刑事訴訟法における自由心証主義はもともと事実認定を合理的ならしめるためにみとめられているものであり、これをさらに合理的なものにするために設けられたのが憲法三八条三項(なお、刑訴法三一九条二項、三項)の規定なのである。後者を制限的に解釈しなければならない理由は、どこにもない。この大法廷判決に真野、小谷、藤田、小林、河村大助、奥野各裁判官の反対意見が付せられたのは当然であつて、その後、この大法廷判決にしたがつた小法廷判決がいくつか出ているが、その中には高木裁判官(昭和三五年五月二六日第一小法廷判決・刑集一四巻七号八九八頁)および田中二郎裁判官(昭和四五年四月七日第三小法廷判決・刑集二四巻四号一二六頁)の反対意見が現われている。わたくしは、これらの各裁判官の反対意見にくみするものであり、前記大法廷の判例は変更されるべきものと考える(なお、私見の詳細については、団藤・新刑事訴訟法綱要・七訂版・二八五頁以下、同・「共犯者の自白」斉藤金作博士還暦祝賀・現代の共犯理論・昭和三九年・所収)。

いま本件についてみるのに、原判決の援用する証拠のうち、主要なものは本件受供与者として被告人の必要的共犯者であつたAの供述調書であつて、他の証拠がはたしてAの自白を補強するに足りるものであるかどうかは、はなはだ疑わしく、前記のような見地に立つて被告人を有罪とするためにはさらに審理を尽すことを要するものといわなければならない。よつて、わたくしは、原判決を破棄し事件を原審に差し戻すのを相当と考えるものである。

(藤林益三 下田武三 岸盛一 岸上康夫 団藤重光)

弁護人中本照規、同田宮敏元、同辺見陽一の上告趣意

第一点 原判決は憲法三八条に違反するものであり、破棄を免れないものと信ずる。

一、原判決は、「案ずるに被告本人にとつて共同審理を受けていると否とにかゝわらず共犯者(本件のようないわゆる必要的共犯を含む)の自白は本人の自白と同一視し、またはこれに準ずるものではないからこれを唯一の証拠として被告本人の犯罪事実を認定し有罪とすることは許されると解すべきところ(最高裁判所昭和三三年五月二八日大法廷判決、第一二巻八号一七一八頁および同裁判所昭和四五年四月七日第三小法廷判決、第二四巻四号一二六頁参照)」と判示している。

二、前記最高裁判例によれば共犯者の自白は憲法第三八条にいう「本人の自白」には当らないと解されているところであるが、共犯者の自白といえども、本人の自白と同様誤判の危険性があることは何人も否定しえないところであるから憲法第三八条の規定された真の意義に徹するときは右判例は変更さるべく「共犯者の自白」も「本人の自白」と同一視またはこれに準ずるものとなすべきものと信ずるものである。

三、元来、被告人本人の自白は証拠の王たるものとされていたが、吾人の歴史的体験に徴し、憲法第三八条が設けられ本人の自白のみでは処罰されず、補強証拠を要することとされたものであり、この点詳論を要せざるところであつて捜査官憲による強制拷問に基く供述や被告本人の迎合的供述等により誤判の恐れがあり自白のみでは処罰されないという刑事司法の大鉄則が規定されているものである。

四、しかるに右原則の設けられた立法趣旨は共犯者の自白は本人の自白ではないと言つた形式的文理解釈により実質的に忘れ去られていると言つても過言ではない。

五、共犯者の自白も、共犯者自身にとつては本人の自白であるから前記危険性がある以上、補強証拠を要求されることが当然であるが右共犯者の自白のみをもつて被告人本人の罪責を判断する場合は共犯者自体の罪責を判断するより以上に危険性が大であることが自ら明らかである。

何故ならば強制拷問による供述や迎合的供述あるいは他人に対する加害的意図等により、自己負罪の自白より他人に関する供述や証言について無責任に虚偽の事実が介入しやすいことは見易い道理である。

六、そして、また吾人の経験する歴史的、客観的な一つの事実について自白したる一方は無罪、他方は共犯者の自白のみで有罪になることは吾人の常識が許さない。

本来、歴史的客観的事実について合一に確定されてこそ刑事司法の目的である実体的真実が表現されたものと言うべく、反対に右の如き矛盾した結論も法律上止むを得ないとする議論は刑事司法の主要目的である人権の擁護と実体的真実の探求を放棄し、人権の擁護を忘れたものと非難されるも仕方がないと思はれる。

そして合一確定こそ裁判の権威を維持するものと考えられる。

七、従つて、憲法第三八条にいう本人の自白には共犯者の自白をも包含されるものと解すべきである。

原判決は被告に対し、罰となるべき事実を判示し、証拠の標目として「川東仙太郎の検察官に対する供述調書四通」、「押収してある名刺半片一枚(当裁判所昭和四八年押第二五二号の一)」、「原審第四回公判調書中の証人信貴久治の供述部分」を掲記するが、右名刺は単に被告人の電話番号が書いてあるに過ぎず、また、右信貴久治の証言も右川東の伝聞を述べているに過ぎず、結局、共犯者の検面調書における自白のみで被告人を有罪としたものである。よつて原判決は憲法第三八条に違反するものとして破棄さるべきものと信ずる。〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例